二人のスサノオは誰か?
摩多羅神は何処から来たのか? 復刻版
黒澤一功の
古代史の世界にようこそ
  卑弥呼Xファイル」の著者がおくる最新情報:
Symbols are language that can help us understand our past.」、シンボルは言語であり、過去を理解する助けとなる (ダビンチ・コード)。

『古事記』」の謎を解く。スサノオは誰?のタブのテーマです。
古事記は日本書紀よりも物語性が豊富です。物語には特有のパターンがあります。たとえば、誰と誰が愛し合い、誰と誰が反目していたかといったようなことです。後宮にスポットをあてれば王の正后と妃との関係にはドラマのような人物相関図があります。古事記にも、こうした人物の織り成す原型があるのです。その原型は扶余にありました。扶余といっても、ご存じない方も多いでしょう。もう少し説明しますと、扶余には北扶余、東扶余、卒本扶余の三王系がありましたが、高句麗という新しい国が起き、やがて勢力を拡張し三王系を統一します。この統一の過程は一言で言えば高句麗建国前史ともいえるのですが、いずれのも貊族の三派が織り成す人間模様が原型なのです。夫余(ふよ)の歴史物語のコアな部分をデフォルメしたのが古事記です。ですから、わたしは扶余史こそが古事記の原型というのです。
 こうして、扶余の物語、または神話の原型をデフォルメ化した作品?が古事記というわけです。
では、デフォルメとはいったいどういう意味でしょう。デフォルメとはフランス語で変形する、誇張するとかいう意味で主に芸術の分野で使われています。原型と同じなら、コピーといいますが、原型を感じさせつつも、一見違うものに作り上げることをデフォルメ化といいます。

「奈良」の語源はパーリ語の”nala”=ナラ、インド語だった!
奈良という文字はパーリ語のnala、サンスクリット由来の語です。日本には仏教語と一緒に入ってきたのです。意味は蘆、葦、芦です。ちまたでは韓国語のウリナラ、われわれの国という意味だと喧伝されていますが、地名に国と名づけるのは、おかしいというか、へんです。韓国語のナラが奈良に転化したというのですが、この説が、まことしやかに専門学者にまで浸透しています。こんな程度の低い思い付きを信じるから歴史歪曲をされてしまうのです。言語学者、歴史学者、文学者はしっかりしてください。
さて、奈良の都は国際都市でした。シルクロードの大遺産である正倉院宝物(ほうもつ)の「紫檀木画槽琵琶」に施されている木画は、エジプト発祥の技術で作られています。木画とは、木の表面に象牙、鹿の角、つげ、黒檀など異種の材料を寄せ木細工のように細かい紋様を描く高度な技術です。なんと、あのツタンカーメンの棺、飾り箱などには木画の技術がふんだんに施されています。エジプトーペルシャー中国を経て、日本にもたらされているのです。また、大仏の開眼式にはインド僧もたちあっていました。奈良にある須弥山石、道祖神石、亀石、猿石などはの石造遺物は吐火羅(トカラ)国の集団が作ったとされています。
さて、みやこの枕詞を葦原といっていました。
その例をみてみましょう。
『古事記』 神武天皇 御歌:伊須気余理比売が参内したとき歌われた。
葦原の むさくるしい小屋に 菅の畳を清らかに敷いて 我と二人共寝したことだ

あさはらとは、宮中にかかる枕ことばです。

万葉集:一六七、日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 并短歌
天地之 初時 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時尓 天照 日女之命 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而  神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 々座奴 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 真弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛
あめつちの はじめのとき ひさかたの あまのかはらに やほよろづ ちよろづかみの かむつどひ つどひいまして かむはかり はかりしときに あまてらす ひるめのみこと  あめをば しらしめすと あしはらの みづほのくにを あめつちの よりあひのきはみ しらしめす かみのみことと あまくもの やへかきわきて かむくだし いませまつりし たかてらす ひのみこは とぶとりの きよみのみやに かむながら ふとしきまして すめろきの しきますくにと あまのはら いはとをひらき かむあがり あがりいましぬ わがおほきみ みこのみことの あめのした しらしめしせば はるはなの たふとくあらむと もちづきの たたはしけむと あめのした よものひとの おほぶねの おもひたのみて あまつみづ あふぎてまつに いかさまに おもほしめせか つれもなき まゆみのをかに みやばしら ふとしきいまし みあらかを たかしりまして あさことに みこととはさぬ ひつきの まねくなりぬれ そこゆゑに みこのみやひと ゆくへしらずも
古事記では葦原中津國という語はたくさんでてきます。
さて、葦という語源をデータから探ってみます。
葦(あし)は葦(よし)とも読みます。そこで、あしは悪しきに音が似ているので、よしと読むことになったのです。実際、奈良に群生していたのは植物学的にも茅(かや)なのです。ヨシまたはアシ(葦、芦、蘆、葭、学名: Phragmites australis)は、イネ科ヨシ属の多年草。河川及び湖沼の水際に背の高い群落を形成する。英語で一般的に リード(reed) と呼ばれるが、湿地に生える背の高い草の総称もリード (植物)(英語版)(reed)と呼ばれます。
奈良の盆地は昔は湿地帯だったのです。奈良にはヨシが群生していたのです。

万葉集:三三三、帥大伴卿歌五首、
淺茅原 曲曲二 物念者 故郷之 所念可聞
浅茅原つばらつばらにもの思へば古りにし里し思ほゆるかも
あさぢはら つばらつばらに ものもへば ふりにしさとし おもほゆるかも
源氏物語 第二章 父帝悲秋の物語 第三段:雲の上も涙にくるる秋の月
いかですむらむ浅茅生の宿
と、浅茅生という語彙がおおくでてまいります。
葦原は、三輪山の麓の笠縫邑周辺から来た地名だろう。かつて茅の群生する湿地帯だった。大小の沼池と水路があり、山から見れば、所々の水面(みずも)がきらきらと光って美しかった。往来は、小舟で行ったり来たりしたほうが多かった。この湿原、そこは、今は茅原(ちはら)という地名になっている。地元の人はかつて笠縫の一帯は湿地で茅が豊富だったという。さて、葦(あし)と、茅(ちがや)とは違う。葦は二メートルにもなるが、茅は60cmしか高さがない。茅・白茅(ちがや)は、イネ科の多年草で、軟らかい銀毛のある穂をつける。穂を「つばな」「ちばな」という。葦原水穂国の「水穂」とは茅(かや)の穂のことだろう。兄猾(うえかし)が屍(しかばね)から流した血にかけて、その場所を「血原」(ちはら)という・・・というのは茅原(ちはら)に掛けたのではないだろうか。

「葦原中国」は三輪山から放射状の橿原一帯のことだった。葦は、ヨシと読まれている。このヨシが、吉野の語源である。葦原の中にある国という単純な意味で、桧原/橿原一体に葦がたくさん群生していたことから、この一帯を、「豊葦原の都」と称されていた。ここから、奈良の都と言われるようになったのは、なぜだろう? 実は、Nalaという、サンスクリット語を音借したからである。Nalaとは、ずばり「葦」という意味である。

あおによし 奈良の都は咲く花の にほぐがごとく今盛りなり 小野老朝臣 719頃
三二八、大宰少貳小野老朝臣歌一首(万葉集巻三328)
青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有
あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり
あをによし ならのみやこは さくはなの にほふがごとく いまさかりなり
あをによし 奈良の都は 咲く花の にほうがごとく 今盛りなり
奈良の都は、花が咲き乱れてよい香りでいっぱいになる頃のように、今、たいそう盛んであることだ。あをによしのそしは吉になっていますが、葦(よし)のことでしょう。
原文では「寧楽」と書かれるのが奈良です。
さて、奈良はもともとインドの言葉で、万葉にすでに取り込まれているのは驚きです。
さらに、あおによしの枕詞は、青丹吉の三文字で、青と赤と葦のことです。つまり、緑青の青、と丹塗りの赤と、近辺の葦の群生を象徴的に読み込んだのでしょう。情景としては色鮮やかな都の様を歌ったのです。
この歌を詠んだ小野老という詠み人はみやこのことをしっかりと、京師といっています。そうとう文字に敏感な人です。中国周代では首都のことを京師と記していたことを知っていたのです。中国の古文献に通じていた、ひょっとすると外国の僧侶だったかもしれませんね。

nalaのデータ元「パーリ語辞典」二訂
 水野弘元著 春秋社1968年―1987年
檜原神社
檜原神社(ひばら)は、「元伊勢第一号」と伝えられる。三柱鳥居(三ツ鳥居)の形式をもつ。宮廷内大殿に大国御魂とともに祀られていた天照大神を崇神六年に、豊鍬入姫命に託して、ここ倭笠縫邑に祭った。二年間、しばらく鎮座したのち、倭姫命が鎮座の聖地を求めて各地を求めた。菟陀篠筱幡(うだささはた)→近江(おおみ)丹後一宮籠(この)神社→美濃(みの)と巡り、最後に気に入られた伊勢の五十鈴川の川上に斉宮(いつきのみや)をおこしたとの伝承がある。

八咫烏は日本のオリジナルではありませんでした。
このカラスには足が三本あるのが特徴です。朝鮮では、三足烏(サムジョゴ)と言われています。紀元前60年ごろから高句麗の朱蒙のトーテムだったのです。中国の桓仁満族自治県の五女山にある高句麗始祖碑の冠帽に描かれている三足烏。日神のシンボルだったのですね。JAFは八咫烏に本家があることを知らなかったようです。
東明王、都慕王とも呼ばれ、姓は高、諱は朱蒙。卒本(朝鮮語版)(チョルボン、現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県)に亡命して高句麗を建国しました。

足が三本、足の指も三本!黒褐色の羽と白い腹、短くて細い脚を持つ・・・これが特徴です。


日本書紀では一カ所に三足烏の表記がある。
孝徳天皇 白雉元年(650年)「沙門對曰・・・又遣大唐使者持死三足烏來、國人亦曰休祥」
また大唐の使者が死んだ三足烏をもって高麗に来た。国人はまためでたいしるしだと言った。(白雉・白鹿・白雀と三足烏が吉兆だとされている)
【休祥】[きゅう しょう、きうしやう]めでたいしるし。よい前兆。吉兆。
延喜式には「三足鳥 日之精也。白兎 月之精也」と記されている。



Photo 上:五女山にある高句麗始祖碑

Photo中:
「三足烏」形象(中国前漢時代の壁画) 
⇒Photo下:
熊野本宮大社神紋 八咫烏


アクセスカウンターアクセスカウンターアクセスカウンター